昭和44年11月17日 朝の御理解

第4節 此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光    大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此    方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。    まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば    、おかげを授けてやる。


 いよいよ、この御理解4節を頂いて分からせて頂くことは、いかに金光大神の言う事に背かぬように、よく守って信心せよという所が、やはり出来なければならないかという事を、ひとつお互いが痛感しなければいけんと思いますね。もう、まあ言うなら、痛いほど分からせてもらう。いや、大体分かっておるけれども、なかなか、実行の上に、行の上に現しきっていない。それを、改めてこう頂く。

 お互いが、どのくらい金光大神の言う事に背かぬような生活が出けておるだろうか。金光大神の教えて下さる事を、どれほど私共が行じておるだろうか。いよいよ金光大神の生きられ方というものがです、ね。私共の生活の、その根本にならなければ天地金乃神のおかげを、本当に受ける事は出来ない、十二分に受ける事は出来ない。

 その金光大神の言う事をよく守ってと仰るが、守らんでも受けておるようなおかげは、言うなら目先、目先のおかげであって、本当のおかげに繋がっていない。お互いが目先、目先のおかげだけを願っておるから、金光大神の教えて下さる事をよく守れんのだという事になる。金光大神の言うことに背かぬように、よく守ると。そこでまあ、教祖の神様は、いわゆる生神金光大神の生きられ方というものが、一番、分かりやすく私共に教えて下さるのは、いわゆる実意丁寧な生き方だと。

 本当にこの実意丁寧な生き方というものが、どのくらい天地の親神様のおかげを受けられる事かと、という事を一つ、しみじみ体験させて頂くところに、金光教の信奉者の信心の在り方と。または、金光教によって救われておる信奉者の有り難さはそこにしかないと、私は思う。目先、目先の事を願うて、目先、目先の事を、おかげを受ける、受けて行くと。金光大神の言う事に背かぬようどころではなくて、背くというのは一つも感心を寄せない。

 それでは、金光教の信心の味わいというものは、ないのではないかと思います。金光教の信心の味わいと言うのは、教祖の在られ方がね、このようではなかったろうかと、またこのようであったと教えてもらったり、それをされるところを行じて行くところから、いわゆる味わいというものは出て来るんです。これはまあ、「理の当選?」ですけれども。この食べ物は「明るく?」味のあるもんだから、よく噛み締めて頂いてごらんと言われても、それを舐めるだけとか、ね、ただ匂うだけでは味わいを、味わえないのと同じ事です。

 金光大神の生きられ方というもの、在られ方というものをです、ね。本当に実意丁寧に行の上に現して行く、そこからです、もう何とも言えん味わいが頂けて来る。そこに金光教信者でなからなければ味わえない味わい。私は本当に金光教の信心を頂いておる者の味わいというものを、味わんなりにお終いになって行くような金光様の信者が沢山おるんじゃないかと思うんですね。おかげの「ある?」だけは知っておるけれども、ね。金光教の本当の味わいという物を、こう味わえきっていない。

 それは不思議な事なんですね。本当にこの、いわゆる実意丁寧と言えばわがまま「もない?」おおちゃくげのない、しかもそれを、丁寧に行じて行くという事。これはもう、本当にちょっとした、その体の動きと言うか、その体の動きその物が、もちろん心の動きという物が体の動きに現れて来るんですね。ですから、心の上におおちゃくげのない、わがままげのない丁寧な心が、心に使われる時に、その事が一つ一つ形の上に現されて。

 私は昨夜、一番最後にお風呂に入らせて頂いたんです。まあ、言うなら一番、裾風呂です。けれどもその、まあ少しはこう、濁っておるような感じの裾風呂ですけれども。本当にその、こう桶にとってから、一つ汲みの水を両方の手で抱えて。本当こう、お礼を申させて頂いておる内にです。もう体全体が熱うなるような感動を覚えるんですよ。その湯船の中に浸らせて頂いたら尚更のこと有り難い。

 そこから、例えば体中を洗わせて頂くでもお粗末な洗い方は出けません。もうそれこそ、一番じゃけん自分の体だからでも、でも本当に実意丁寧に体を洗わせてもらう。もう、石鹸一つの使い方から、ね。タオルの絞り方にいたるまで、実意丁寧を込めての使い方が出来る。いつもの事ですけれども、そういう、その実感というものがです、私、ね。原動力になっての生活。

 そこに、私は金光教信者の、いわゆるこれは、独壇場的な味わいと。特別な、私共だけに許されておる味わいというものがあるんですけれど、その味わいを味わおうとしない。ですから私、「           」だけに言う事ですけれども。どんなに修行が出けとる、どんなに信心がどうと、こう言うてもね。ロクソな人はもうおかげは受けられんて私が言うんです。

 ね、もう金光教の信者の根本的なところに、が間違ってる。はあ、それは、それは有り難い。それは、それは有り難い味わいという物が、もう噛み締めれば、噛み締めるほど素晴らしい味わいを味おうて行くという事がです、私は金光様の信奉者の、これは値打ちでもある、また信奉者の許された味わいだと思うのですけれども。そこんところの味わいを味わいきらん。いや、味わおうとしてない。

 甘木の初代のお話を頂くと、本当にこう、私共にピンと来ないような話ばっかりなんだけれども。本当にホコ紙一枚でも、ね、枯れた枯れ枝一本でもお粗末にされなかったと。それこそ、タオルの絞り方一つでも、心を使われたとこう言う。なるほど天地の大恩を悟られて、天地のお恵みによって出来ておる一切の物を大切にされたと言われておりますけれども。私は、その天地のお恵みの物だから大切にされたというだけのものではなかったように、今日は私は思うです。

 いわゆる、金光大神のその生きられ方、在られ方という物をですね、えー、身を持って行じておられたと。そこに、あのような偉大なとこと言うか、偉大な働きがお出来になるような原動力があったように思う。天地のお恵みの物だから、大事にする、と言うと、これは大変、私は今でも問題が残ってるんです、あるんです。

 そこに、甘木の生き方に、らしき物を持っておったんですけれども。今日の御理解を頂いておりますとですね、もう金光教の信者だからこそ、それが出来たんだと。それは、天地の大恩という事は別なのだと。金光教祖の生きられ方が、いわゆる実意丁寧神信心。特に実意丁寧な、「ごみげ?」のような生きられ方をなさったのですから、その実意丁寧をただ現しておられただけなのだ。だから、金光大神のお喜びもあろう、天地の感動もまたあろう。

 ね、だからあのようなお徳をお現しになる事が出来たんだ。今日はそういう風に思わせて頂いて、えー、いわゆる金光様の御信心を頂く、頂いておる特別の味わいを味わえ尽くさんばかりに、その尽くしておられたと。そこが、原動力になってのお取次ぎ。そこが原動力になっての助かり。自他共に助け、助けられてお出でられたのだと思う、思わせて頂きます。

 もう、甘木の初代のお話を頂くと、天地の大恩という物を、もう本当に隅、こう隅から隅まで感じとっておられたような感じ。だから、なるほど、それこそこの葉一枚でも神様の御物として、大事に大切にされたんだという事に私は非常に疑問を感ずるんです、だいたい。「だい、できたんです?」。ね、一巣くいの水だってです、ね。大切にされる、され具合という物がです、「と?」天地の大恩という事にの関連性を持たせての、大事にするのだったら、大した事ないような気がするんですね、私は。

 ね。ところが、その生き方、そういう生き方こそです。そういう実意丁寧な生き方、生きられ方こそが金光大神の言う事に背かぬようであったというところにですね、改めて私は、甘木を見直したち言うたら失礼な言い方ですけれど、甘木の先生の偉大さを今日は感じますですね。わずかな事でありますけれども、そのささいな、その事柄の中に、わがまま、おおちゃくのない心の使い方がです。

 例えば私、お風呂ならお風呂に入らせて頂いた。それはですね、ほれは、もう始めに、さら風呂に入らせて頂いて。それで、もう何から何まで行き届いた中で、有り難い物が生まれて来ないなら、これはおかしいぐらいです。ね。それが、もう当たり前のようになったら、もういよいよ、それはわがままであり、おおちゃくだと思いますよね。けれども、もうお湯はあんまり多くもない、少なくなっておる。しかも濁っておるお湯の中にですね、浸らせて頂いて感動を覚えると。ね。

 例えばそのような、その頂き方。そこには、その、私その時の心の使い方としてはです。ね、いわば実意にいっぱい、こう満ちておる。ね、隅から隅まで丁寧に。もうその心を使いながらの、いわばお風呂を頂いておるのでございますから、そこに感動が起こるはずだと思うような有り難い中に、お風呂を終わらせて頂く事ができる。そういう心の状態が、すべての生活の原動力になる。

 丁寧、実意。ね、という物がです、私いかに大事か。その生き方こそが、教祖金光大神の生き方なのだと、と一つ分からせて頂いて、おかげを頂いて行く。いわば、日々を深い味わいの中に過ごさせて頂く。ただ、そこのところをおろそかにされてです。ただ、おかげを受けた、修行をした、お参りをしたと。話を聞いて、有り難かったと言うだけのは、私はもう、「眠れない?」、例えば、花を眺めておるようなものじゃなかろうか。ね。

 その根のところを大事にさせてもらう。だから、一つの花が終えると、また次の花が、また小さい硬いツボミであった物が、また咲いてくるようにです。その根のところを大事にして行くところから、次から次と限りなく有り難いものに触れさせて頂けれる、おかげを受けられるのだと思うのです。ね。

 金光大神の教えた事に背かぬようにと。というその、根本は、私は教祖の神様の生きられ方にあると。しかも、それは実意丁寧な生きられ方にあると思う。その実意丁寧、それを神習わせて頂くと。ね。私はそういうような、例えば私共の生き方をですね、例えて言うならば、最近、自動車の事故が多いですが。自動車に乗る人が、その自動車の頂き方と言うか。その運転の仕方の上にでもです、ね。私、昨夜、風呂の中で感じたような感動を持って自動車が使われるなら、まず絶対、事故なんかの起こるはずはないと思うですね。
 そこには、もう自他共に助かる。そこんところを根本としての信心。そういう生き方を、私共の身に付けさせて頂くというところに、お道の信心、信奉者の信条があるのだという風にです、分からせて頂いたら、ね。その事が金光大神の言うことに背かぬようじゃなくて、金光大神の在られ方に背かぬようにという事になって来るのですね。

 ですから、言われる事が、もう素直に自然にです、背かぬようにという事に繋がって来るんだと、こう思うのです。ね、今日は一つ、徹底そこのところのですね、金光大神の言う事に背かぬようにと仰っておられる、その前程としてですね。金光大神の、いわゆる在られ方に、ね、生きられ方に背かぬような、いわゆる実意丁寧な思い方。その思い方が自ずと形に現れて来る生き方。そこから、やはり実意丁寧という事はこのようにも、尊い、有り難いものだなという感動が湧いて来る。

 感動が湧いて来るから、その感動がすべてのことの原動力になる、働きの原動力になる。なるほど、これならおかげが受けられるはずだと思います。改めて、甘木の初代が天地の大恩を悟られて、天地の大恩を知られて、ね。枯れ枝一本でも、ホコ紙一枚でも、お粗末にされなかったという事に対して、私は非常に、「の?」抵抗を感じて、疑問を感じた。私共の生き方なんかっていうのは、そんな事ではない。

 そげんせんでんと、こういうような物があったけれどです。それが天地の大恩も然ることながらです。そういう生き方が金光大神の生きられ方だと、ほこ紙一枚でも丁寧に、枯れ枝でも丁寧に扱われるその事が金光大神の生きられ方に従順であられたと。生きられ方を、身を持って現しておられたんだという風に、こう感じさせて頂くとです。甘木の初代の真似が、私共は出来も、出来もしませんがです、その事の素晴らしさがです、改めて感じられます。

 金光大神の、そういう思われ方とか、生きられ方というものをです、私共お道の信奉者が、ね。先ず、頂かせてもろうて、実意丁寧の味わいという物をです、一つ本当に味合わなければいけない。実意丁寧なく、金光大神がそういう風にあられたであろうと言う、その実意丁寧さをです、私共が身を持って頂かせてもらう。そこから、実意丁寧の味わいという物を感じさせてもらう。その実意丁寧の味わい、その味わいが私共の生活の根本的な、いわゆる原動力になる。

 「       」、こここう頂きゃおかげになる。ね。という風に今日は、そこを私は、それこそ痛感致しました。何か棒でボーンと殴られて、痛い思いをしてからハッと分からせて頂くような感じです。ね、そういう意味で私共が、実意丁寧が地につくと言うか、ね。その味わいを味あわせて頂くその味わい、その喜びが生活のすべての事にです。ね、現れて来るおかげを頂かなければならん。

 この方金光大神あって、天地金のおかげ、神のおかげを受けられるようになった。この方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人と。ね、その神からも氏子からも両方からの恩人というところを、私は本当に分からせて頂く為に、また分からせて頂いて金光様でなかなきゃいけん。苦しいから金光様、頼む事だけ金光様、頂く時だけ金光様と言うのではなくてです。その大恩が分かっての金光様。

 ね、そこんところを、私は分からせて頂く為に、なら金光大神の、その在られ方、生きられ方という物をです、ね、それを私は、なら実意丁寧とこう申しました。実意丁寧のその生きられ方をです、徹底行じさせて頂くところから湧いて来る感動。金光教の信心する者でなかなきゃ頂けない味わいという物を味合わせてもらう。その味わいがすべての生活の原動力になる。そのことがです、金光大神の在られ方に従順になることであり、金光大神の言われる事に背かんで行けれる、おかげの受けられる元になるものである。

 なるほど、これならばいよいよおかげが受けられるなと。そこんところを抜きにして、私共が頂いておるようなおかげばっかりを頂いておるように思う。いわゆる、金光大神の言われる事には背きどうしで、ただ金光様とこう、願うておかげを受けておるばかりのように思う。

 だから、そのおかげは言うならば、ね、いわば根のない花を頂いておるようなものだから、すぐその時だけ、その時だけは有り難い。その時だけは美しいけれど、後はもう枯れてしもうて。後は、もう何もないという事になる。根本のところ。そこんところを、私は御理解4節。今日の御理解4節から、そこのところを頂いたように思うのです、どうぞ。

                       末永信太郎 ( 5月22日 )